もう働きたくない!

常識を疑い、固定観念を破壊する――。

努力と才能。正しい方向に必要な量だけ行動して運を味方に付ければ報われる

努力と才能
努力と才能

正しい方向とは。

ここでいう「正しい方向」とは、「適切な目標設定」が出来ているかということです。
「適切な目標設定」が出来ていない場合、それはいくら努力したところで叶わないので「報われない努力」となってしまいます。
例えば、100メートルを3秒で走るだとか、どう頑張っても実現不可能な目標を設定してしまうと徒労に終わってしまいます。
そのため「この目標設定は今の自分にとって現実的なのか」という観点で考える必要があります。

努力とは、将来の自分への投資である。

投資とは将来の成長に期待するものであり、期待どおりに成長すればリターンを得られ、成長しなかった場合は投資額すら回収できない場合もあります。つまり、常に儲かるとは限らないということです。
努力も同じで、努力とは将来の自分への投資であり、必ずしも報われるものではない。という考え方に思考をシフトする必要があります。

「才能」の正体と見つけ方。

誰にでも向き不向きがあり、特段秀でていると(適性がありすぎると)人はそれを「才能」と呼びます。
つまり、自分が向いていると感じている事柄の中から、一番秀でていると思えるものが自分にとっての「才能の種」です。
この向き不向きの話には、好き嫌いは関係ありません。たとえ嫌いであっても、向いていて他者より上手くできれば適性があると言えるのです。
ここで大事なことは、いくら才能があっても何もしなければ何も起きないということです。
才能があっても目標を達成するためには相応の行動が必要です。その行動を努力と呼ぶかどうかは自分の主観と他者の客観に委ねられます。

自分では「努力した!」と思っていても他者から見れば努力とは見做されないなかったり、逆に自分では努力したと思っていなくても他者から見れば「努力してる」と評価される場合もあります。

スヌーピーの名言を思い出せ。

スヌーピーの有名な名言に「You play with the cards you’re dealt …whatever that means.」というものがあります。
日本語に訳せば「配られたカードで勝負するしかないのさ….. それがどういう意味であれ」です。
この名言でいうところのカードとは、努力に則していうなれば、時間、金、周囲の理解・応援、そして運などのことです。
この名言を言い換えば「自分が使える時間、金、周囲の理解・応援、そして運を最大限に使って頑張れ。」ということになります。
人それぞれ置かれている環境は異なります。
自分が使えるカードを最大限、有効に使うしかないのです。

報われなかったとしても、その努力には価値がある。

「報われなければ努力する意味はない」という旨の発言をする人がいますが、努力しないのは勿体ないことだと思います。

報われれば成功で報われなければその努力は無駄という考え方は、0か1かでしか物事を測れないゼロイチ思考の完璧主義者の思考に陥っています。

ゼロイチ思考とは、端的に言えば「結果が伴わなければその過程に意味はない。」という考え方のことです。

この考え方を究極的に突き詰めていくと「どんな人生を歩んだとしても、死という結末には変わりないのだから、その人生を頑張ることには意味がない」となってしまいます。

なぜなら、プロ野球選手として人生を過ごそうが、芸能人やYoutuberとして人生を過ごそうが、ニートだろうが、ホームレスだろうが、どんな生き方をしても死という結末は等しく訪れるのだから、人生を過程と捉えた場合、その人生には違いがない。意味がない。となってしまうからです。

この考え方は非常に危険です。

いずれ「努力しても成功しないかもしれないし、止めておこう」という思考になり、何も出来ない人になってしまいます。

でも、目標を100%達成出来なくても良いんです。

例え目標を100%達成できなくても、20%でも50%でも80%でも良いんです。努力しなければ永遠に0%のままなのだから、その状態と比べれば前進しているわけで、それでヨシと思えることが大事です。

明日の自分が今よりも1ミリでも成長出来ていたらそれでヨシと考えましょう。

iphoneやMacBookで有名なApple社の創設者スティーブ・ジョブズの名言の一つに「Connecting The Dots」というものがあります。
日本語に訳すと「点と点を繋ぐ」です。

どういう意味かというと、「先を見通して点を繋ぐことはできない。後から振り返って繋ぐことしかできない。だから今は、将来何らかの形で点が繋がると信じることだ」という意味です。

ジョブズが言う点を努力に置き換え、この努力がいつか将来実を結ぶと信じるのです。

努力を通じて手に入れたスキルや経験は、きっとどこかで役に立つ瞬間があります。

今の努力が実らなくても、別の場所で花咲くこともあります。

「あのとき努力しといて良かった。」と思える日がきっと来ます。

「今役に立ったから、あのときの努力は報われた!」と解釈しても良いと思います。

成功者は他者に還元すべし。

成功者とは、他者がどれだけ努力しても到達できなかったその境地に辿り着いた者のことです。

成功者は、努力が報われるまで努力し続ける環境に身を置けたことやそれを支えてくれた周囲の人々に感謝の意を表明すべきです。

アメリカでは「成功者は寄付をする」という考え方が根付いています。この話をすると「それは金持ちの節税対策だ」と言う人が絶対出てきますが、それでも良いのです。「やらない善よりやる偽善」とよく言いますが、成功者の本音がどうであれ、その寄付で助かる人がいるのであれば、それで良いと考えたいものです。

境地に辿り着いた成功者にしかできないことがきっとあります。それを果たすことが成功者にとっての使命なのだと私は思いたい。

努力すれば成功するとは限らないが、成功者は皆努力している。

敬語は形骸化している。もはやただのビジネス日本語に過ぎない

敬語は形骸化している。もはやただのビジネス日本語に過ぎない
敬語は形骸化している。もはやただのビジネス日本語に過ぎない

現代における「敬語」の正体

なぜ敬語を使うのか。それは「ビジネス日本語」として日本に根付いているからです。
ビジネス日本語として日本に定着しているからこそ、ビジネスの世界では相手が年上でも年下でも関係なく敬語を使うのです。
現代において敬語とは、「敬う気持ちがあるから使うもの」ではなく「周りがそういう話し方をしているから自分も倣って使う」程度のものです。
ぶっちゃけて言えば尊敬の念を感じて敬語を使っている人は少ないと思います。

例えば、海外に行ったらその国の言葉でその国の人間とコミュニケーションを取ろうとしますよね?
アメリカに行ったら「英語」を話すだろうし、フランスに行けば「フランス語」を話そうとするはずです。
敬語もこれと同じです。ビジネスの場における公用語として敬語が存在しているだけに過ぎません。

「敬語」という呼称は現代に合わない。「ビジネス日本語」と呼ぼう。

  • 相手が単に年上だという理由だけで敬語を使うことを強制される理不尽
  • 相手が尊敬するに値しない人間であっても敬語を使うことを強制される理不尽

これらはすべて「敬語=尊敬する相手に使う言葉」という解釈に起因するものです。

敬う気持ちの有無に関係なく敬語を話すことを強要されているのであれば、それはもはや「敬語」とは呼べません。
「敬語」という言葉の使われ方が変化したのにもかかわらずいつまでも「敬語」という呼称を使っているから上記のような話に発展するのです。
ビジネスの場では公用語として「ビジネス日本語」を使う。それだけの理由で良いのです。そこに尊敬の念は必要ありません。

ビジネスの世界では、初めて会う客にも敬語で接します。初めて会って相手のことは何も知らないはずなのに、尊敬の念が芽生えるなどあり得ないのです。
尊敬の念がないのに敬語を使っている矛盾。
「敬語」を「ビジネス日本語」に言い換えればこの矛盾は発生しません。

お互いが気持ちよく会話するための手段としてビジネス日本語を用いる。
これが令和の新常識です。

そのお土産、コロナ菌付いていない?大丈夫?職場でお土産を配る文化を廃止しよう

お土産とかいうクソゴミ文化は要らない
お土産とかいうクソゴミ文化は要らない

コロナを機に、職場でお土産を配る文化を廃止しよう――。

いったい誰が始めたのかこの文化。

僕はお土産を何にしようか気を使いたくないからお土産を買っていかない派です。

休暇を取って相手に迷惑をかけるのはお互い様なんだし、そういうものだと思って気にしなければ良いのに。と思います。

むしろお土産一つ配ったくらいで許してもらおうだなんて虫が良すぎる話。
仕事の借りは仕事で返せ。 と思います。

年賀はがきを止める人や飲み会に行きたくない派がいっぱいいるこのご時世、僕みたいな人はごまんといるはず。

仕事に必要な親睦くらい、仕事中に深めれば良いのです。

こうなってしまう背景には、有給が取り辛い企業文化(お国柄?)も相まっているのではないかと考えます。
有給が取り辛い中、旅行に行くのだから、お土産を買っていこうと考える人も少なからず居ると思います。
でも、よく考えてほしいのです。
Google翻訳で「お土産」を英語にすると「Souvenir」と出てきます。「Souvenir」の意味は「思い出の品」です。
英語圏では、お土産とは自分のために買っていくものであって、誰かに渡すものではないのです。
誰かに渡すものはプレゼント「present」といいます。

だから、どこかへ出掛けたからといって、職場の人に渡すためにお土産を買ってこなくても良いのです。

このブログの副題は「常識を疑い、固定観念を破壊する」です。
この記事では、職場でお土産を配るという固定観念について考えます。

なぜ、お土産を配る文化が日本中に広まったのか。

以下は私の考察です。
大企業や、公務員の仕業じゃないかと睨んでいます。
日本には中小企業が数多く存在し、その多くは大企業や官公庁から仕事をもらって飯を食っています。

大企業や官公庁というのは出張や転勤が多くあります。
大企業や官公庁勤めの彼らは、出世のために、上司に良く思われようとして、旅行や出張、転勤に行くたびにお土産を買って帰り、職場で配るのです。

中小企業勤務の人たちも、大企業や官公庁からは良く思われたいですから、当然これを真似しだします。
そうすると、日本全国津々浦々で、「前の職場ではお土産配ってたし、ここでも配っておくか。」という発想でお土産を配りだす人が大量発生します。
そうして日本全国で、旅行や出張などに行った際はお土産を買ってきて配るのがマナーだ。という風潮が出来上がっていったのです。

言うほどコミュニケーションの円滑には寄与しない

「職場でお土産を渡せばコミュニケーションが生まれる」と言う人がいますが、僕はそれほど寄与しないと思っています。 どうせお土産を渡しても会話のパターンは決まっています。
「これ、おみやげです!」
「どこ行ってきたの?」
「○○です!」
「へぇ~そうなんだ~。」
――終了――
大体みんなこんなもんです。
親しい人同士の場合はここから会話が弾んでさらにキャッチボールが続くのですが、 そんなに親しくもない人の場合、会話が発展することなんてほとんどありません。気まずさの方が勝ちます。
お土産を渡す側はどこで会話を切り上げて次の人に渡しに行こうか考えているし、お土産をもらう側も、親しくもない人の旅行話に興味ありません。よっぽど自分にとって関心がある場所でない限りは。
つまり、元々仲が良い人たち同士であれば会話のネタになり盛り上がりますが、それほど仲が良くない人にお土産を渡す場合は、会話があまり弾まないと思うのです。

職場でお土産を配ることを考えるとメンドクサイ。

コロナ禍じゃなくても職場でお土産を配ることを考えるとメンドクサイことはこんなにいっぱい! * 旅先で楽しんでるのに、仕事のことを思い出させるな。 * ○○さんにあげるなら△△さんにもあげなくちゃ。となって渡す人数が増える。 * 渡す人数が増えると職場に持っていくのが大変。 * 職場に持っていきやすいように、渡しやすいようなお土産を選ぶのが大変。 * お土産の数が増えるとなると当然、お土産にかかる金額も高くなる。(経費で落ちないのに。。。) * 上記のことを考えるから気を遣う。

こんなに気を使わせてメンドクサイ文化はなくそう。
未だにお土産配って喜んでる頭ピュアピュア野郎は時代遅れだぞ★

さいごに

家族や友人など、身内にお土産を配るのは良いと思います。ただし、職場でお土産を配る文化。テメーはダメだ。 このクソゴミ文化が根絶されることを切に願う――。

就活生、新社会人に告げる仕事を選ぶときの考え方

就活生、新社会人に告げる 仕事を選ぶときの考え方
就活生、新社会人に告げる 仕事を選ぶときの考え方
「自分がやりたいこと(興味ある事)」を仕事にするか「自分の能力で出来ること」を仕事にするかのどちらかです。

裕福な家庭の生まれでない限り、働くことからは逃れられません。
自分が生活していくためにはお金が必要なのです。
現代社会では、1日8時間、週5日、これが最低限のノルマです。そしてこの生活を何十年と繰り返すのです。
朝起きて支度をして、通勤して、仕事してまた家に帰る。下手したら1日12時間程度は仕事のために時間を費やすわけです。
平日のほとんどの時間を仕事のために費やし、どうせ働くことから逃れられないのなら、どうせなら、自分がやりたいこと、興味を持っていることを仕事にしたほうが有意義だとは思いませんか?興味のない、やりたくもないことを仕事することは人生の無駄使いだと考えます。

そう思える人や、バリバリ仕事をやっていきたいという人は前者を選ぶと良いでしょう。
自分がやりたいことを仕事に出来る人は、きっと人生が豊かになるはずです。
ですが同時に、自分がその仕事に対して無能だった場合のときのことも考えておかねばなりません。
自分がやりたいこと(興味ある事)が出来る仕事に就いたとき、その仕事をこなすだけの実力がなかったら、残業することになっても仕方ないですし、
仕事についていけるように、業務後や土日はプライベートの時間を多少捨ててでも勉強に費やさなければなりません。
自分がやりたいこと(興味ある事)を仕事にするということは、それくらいの心構えが必要。ということです。
「好きな仕事には就いたけど、好きな業務しかやりたくありません。定時なので帰りまーす。」なんてことにはならないように気を付けてください。

逆に「私はそこまで頑張りたくない。プライベートを重視するタイプだ。」という人や、前者を選んでいたけど仕事についていけなくなったという人は後者を選ぶと良いでしょう。
つまり、自分が出来ることを仕事にするのです。
自分の能力で出来る範囲の仕事をしていれば、業務後や土日にプライベートの時間を捨てて仕事のための勉強に費やすといったことも少なくなるはずです。
それでもやはり、会社の繁忙期や、自分が何か重大なミスをしてしまった場合など、残業したり、辛いことに合う場面が少なからずあるはずです。
そうです。どんな仕事に就いていたとしても、必ず辛い場面は訪れるのです。
どんな仕事を選んだとしても辛い場面が訪れるのなら、「これなら頑張れる、これくらいなら続けられる」と思えることを仕事にしたほうが賢明です。

そういう観点で、自分が頑張れるような仕事を探してみると良いでしょう。

営業と技術はどちらが偉いのか。STEM教育の重要性。

営業職と技術職
営業職と技術職

営業職と技術職、どちらが偉いのか

営業職と技術職、どちらが偉いのか。
強いて言うならば、その答えは"技術職"です。
なぜなら、営業職などの間接業務は、技術職があるからこそ輝けるからです。
技術職が製品を作ってくれるから、営業職はそれを売りに行ける。
技術職が製品を作ってくれるから、マネージメント層が彼らを管理できるのです。
技術職が居なければ、営業職の人たちは何も売ることが出来ないし、マネージメント層の人間も管理するものが無くなります。
つまり、営業やマネージメントなどの間接業務は、技術職の人たちのおかげで仕事が成り立っているといえます。

一方、技術職の人たちからしてみれば、営業やマネージメント層の人間などはいなくても仕事は成立します。
毎日コツコツと頑張り続けていれば、いずれ製品が完成するからです。
もしかしたら、営業職やマネージメントの人間がいないために、製品を作ってみたら赤字になっているかもしれないし、納期に間に合わないこともあるかもしれません。
でもそれは、技術職の人間を教育してカイゼンをすれば良いのです。
営業職の人間がスキルを獲得し、製品を作ろうとする場合の教育コストは費用対効果に恐らく合いません。
この投資をするくらいならおそらく企業は技術職の人間を採用する方針を採るでしょう。
ですが、技術職の人間が営業をしに行ったり、マネージメントを学ぶ方はまだ現実的です。
元々技術畑の人間を教育してカイゼン続けていれば、きっと一定の効果はでます。納期に間に合わせ黒字にするところまでは持っていくことができるでしょう。

でもおそらくそこが限界です。
それだけでは会社の利益を最大化することはできないのです。
そこで、営業職の登場というわけです。

技術職の人間がそれを行ったところでその道のプロには叶ないのもまた事実です。
つまり、営業職は営業職のエキスパートでなければなりませんし、技術職は技術のエキスパートでなければならないのです。
営業職と技術職のどちらか一方が"偉い"なんてことはなく、お互いが妬み合うことなく協力することで会社の利益を最大化することができると考えます。

全員が技術職ならば話は通じる。

「技術職の言っていることはよくわからない。」こんな声をよく聞きます。
これを解決する手段の一つがSTEM教育です。
全員が技術職としての下地を備えていれば、そのまま技術職の道を極めても良いし、営業職になったとしても、技術者との会話についていけるはずです。

これから営業職と技術職の人間が手を取り合う鍵は、STEM教育にあります。

出産女性を「母」とする生殖補助医療法案について考えた

この法案で言っていること

この法案では、第三者(X,Y)から精子・卵子を提供してもらい、花子さん自身が母体となって妊娠・出産することで、花子さん自身が「母」となれる。

代理出産とは

代理出産を説明する画像
代理出産を説明する画像

代理出産とは、子どもを産めない男女が、自分たちの精子と卵子を提供して、第三者(代理母)に妊娠・出産を依頼することだ。
つまり精子・卵子は自分たちのものであるが、第三者が母体を担っているということです。

しかし、今回の法案どおりに行くと花子さんは「母」となれず代理母が「母」として認定されてしまう恐れがある。

私が考える最適解

私が考える最適解は、「遺伝子上の親」、「生みの親(母体)」、「育ての親」の3つを親として認定することだ。
なぜなら、法律上の親子関係は如何様にも変えられるが、遺伝子上の親子関係を変えることはできないからだ。
この原則は、現代の遺伝子学、医学においては絶対不変の真理だろう。
であるならば、時代に合わせて変えることができる法は、この原則に基づいて考えるべきだろう。と私は考える。
以下に、代理出産の場合と遺伝子提供を受けて出産した場合それぞれがどう認定されるのかを表で示す。

【代理出産の場合】
遺伝上の親 太郎 花子
母体 なし 第三者
育ての親 太郎 花子
【第三者の遺伝子提供を受けて出産した場合】
遺伝上の親 X Y
母体 なし 花子
育ての親 太郎 花子

誰が親かは子どもが決める

この法案を考える上で大事なのは、親目線ではなく生まれてくる子ども目線でこの法案がどうあるべきかを考えることだ。

子ども目線で考えたときに、誰が自分の親であるかを決めるのは「法」ではなく、子ども自身です。
生まれてくる子どもには、遺伝子上の親を知る権利が保証されるべきと考えます。
このように考えたとき、子どもが自身の親を選択できるように、「遺伝子上の親」と「育ての親」を区別しておいたほうが良いでしょう。

子ども
子ども

本当の親(遺伝子上の親)には会ったことないけど、太郎さんと花子さんが僕にとっての本当の親だ!

と思う子もいれば、

子ども
子ども

太郎さんと花子さんには感謝してる。でも本当の親(遺伝子上の親)に会いに行く!

と思う子どももいるでしょう。

従来は、「遺伝子上の親」=「育ての親」として成り立ってきた関係ですが、「親」とはそもそも何なのかという「親の定義」そのものを再定義する時代がやってきているのだと思います。 今後、このようなケースが増えてくるはずです。将来的には「遺伝子上の親」と「育ての親」を区別して考えるのが常識となる日が来るでしょう。

離婚した場合の親権はどうなる?

第三者の精子・卵子の提供を受けて子どもを授かった夫婦が離婚した場合の親権はどうなるのか?という疑問が生じる。
ここで考えるべきは「子どもを授かりたいと思っているのは誰か」だ。

精子・卵子を提供した第三者は、自分の遺伝子を提供しただけであって、子どもを生む意思はないと考えられる。よって第三者は親権の候補から外れる。

次に考えるべきは太郎さんと花子さんだ。どちらか一方、または双方が子どもが欲しいと願ったから、第三者からの遺伝子提供を受けて子どもを授かったわけなのでここを紐解けば良い。

つまり太郎さんが子どもを欲しいと思ったのなら、親権は太郎さん。
花子さんが子どもを欲しいと思ったのなら親権は花子さんになる。
では、双方が子どもを欲しいと思っていた場合はどうしたらよいか。

それは結婚時に決めるのが最適解だと考える。
普段、意識していないかもしれないが、結婚とは契約だ。
苗字を一緒にする契約、築いた財産を共有する契約などたくさんある。
ここに、「親権について双方で合意する契約」を盛り込めば良い。
婚姻届に、親権についての欄を設ければ良いのだ。
結婚時にこの契約をしている夫婦だけが、第三者の遺伝子提供を受けて子どもを授かることができるようにすれば良い。
もちろん、離婚時にこの契約が履行されない場合の罰則規定も必要だ。
これで親権問題は解決する。